毎朝、抹茶を頂いていると言うと、「優雅ですね」と言われることが多い。
誤解して欲しくない。
私は優雅だから抹茶を頂いているわけではなく、抹茶を頂くから優雅なのだ。
昨年のブログで来年は作陶すると予告していたように、作陶してきました。
無謀だけど、いきなり電動ろくろで挽いてみました。陶芸教室をやっている工房に電話をかけて、「あの~、電動ろくろをやってみたいんですが、初めてなんですけど、大丈夫ですか?」と聞いたら、「大丈夫ですよ」ということだったので、行ってみた。行ってみると、「ホンマに初めてかいな?!」と半分呆れられる。いきなり抹茶茶碗を作りたいとか言う人は要注意や、とのこと(笑、はい、否定しません)。今日は完成せーへんかも知らんけど、まあやってみな。
指のポイントがずれたり、摩擦が大きくなると、あ~っ、あかん~と言う間にヨレヨレ~ってなってしまう。
失敗しながらもろくろ挽き5つ成功した。次の週、茶碗が少し乾いてから高台削りに行く。高台は茶碗の見た目を左右する大きなポイントだし、持った時の重さやバランスも決めるので難しそうだと思っていた。実際にやってみると、カンナが引っかかって持っていかれてしまう。何度もセンターから外れてしまって、その都度修正しないといけなかったので、これまた難しかった。
少し慣れてきて、「おっしゃー、次はカッコイイ高台にしたるぜ!」と、攻めていったらバコッと底に穴が開いてしまった。こうして5つあったものが4つになった。完成品にはサインを入れる。私は自分がデザインしたマークをサイン代わりに入れた。
作陶している間は作業に没頭していたと思う。何というかモーターが回る音や周りの音は聞こえているのだけど、聞こえないような状態になった。こうして自分が使う器を作れるのは、何と幸せなんだろう、何と豊かなんだろう、と感じる。
そして、本焼が済んだ抹茶碗が4つ手元にある。すごい、子どものように、興奮しますね。
前回のブログで、人類は資源を掘り起こして、地球に対して既に払いきれない借金をしていると書いた。あたかも沈みゆく船の中でも更にお金を儲けようとしたり、利権を争って殺しあっているような状態とも言える。
こんな状態が正しいのだろうか?
全員が勝つパチンコってあるだろうか? 誰かが損をするから誰かが儲けるのであって、パチンコをすれば全員の手持のお金の総量が増えたりしない。
この根本的な方向性の間違いがありながら、人類はさらにお金を儲ける方向へと突き進もうとしている。世界中の人々を全員お金持ちにすることができるだろうか? (きっとそうなる前に地球環境がメチャクチャになるだろうけどもね。) お金を全ての価値に優先して考えている限り、まともな結果にはならないと思う。
うれしいことに違う価値意識を持つ人もちらほら散見する。例えばお金持ちよりも時持ちを目指す人たちだ。競ってお金を儲けるではなく、のんびりと自分がやろうと思うことに時間を使う、自己実現のためにお金ではなく、時間を費やすような生き方の人々だ。
でも私はさらにもう一歩踏み込んで、「幸せ持ち」を提唱したい。自分の身の回りにある色々な幸せを感じることは、自分の心一つで増やすことができる。お金を持っている人もそんなに持っていない人も幸せを見つけることはできるはずだ。お金を儲けるには人から搾取しないといけないけれど、幸せは人から搾取しなくてもいいし、幸せを巡って戦争も起こらないだろうし、世界中の人類が幸せになっても、環境破壊にはならないはずだ。
お金持ちよりも、時持ちよりも、幸せ持ちが良い。
(シリーズ終わり)
誰が何に対して借りているのだろう?
その問題を考える前にお金について考えてみたい。あくまでも私的な憶測であるが書いてみる。金などの貴金属が貴重とされて最初は金貨や銀貨などの実体を伴った貨幣が流通していたわけだけど、でもそれだけではオゾマシイほどに強欲な人間が扱う貨幣が圧倒的に不足してしまった。
つまり、人間が欲している金貨の生産量よりも、流通させたい通貨の総量があっさりと越えてしまった。さあ、どうしましょう?
「今は掘り出せていないけれど、将来掘り出せるはずの金を保証する証明書を発行しましょう!」
「わー、賛成ー! パチパチパチ~! すごいぞ紙幣! じゃんじゃん紙幣を発行して、将来掘り起こすはずの金を担保にしよう。」
しかし、人間が有志以来に掘り起こした金の総量が15万トン前後、人間が将来掘り起こせる金の総量が4万トン前後なのだそうな。かつてIMF(国際通貨基金)という仕組みが金の価値をドルで換算した時代があったらしいが、そんな仕組みは大昔に放棄されたそうな。
つまり、地球に存在する金の総量よりもドルやら円やらユーロやら元やらルーブルやらという紙幣の総量が圧倒的に増えてしまい、金とドルが釣り合わなくなった証明である。ああ、人間は何と健気で愚かで小賢しいのでしょうか。ありえない価値を求めて、血眼になったり、争ったり、健康を損ねたり、自殺したりする。
私が想うに紙幣とは、地球資源への払いきれない借金であり、それを扱う人間もまた借金だらけという訳だ。こういう生き方が幸せを招くだろうか?
今は世界中の人類が地球資源の総量に対して絶対に払いきれない借金をしておきながら、知らないフリをして豊かだと勘違いしている有様なのだろうね。その借金の肩代わりを自分が被らないよう他人に押し付けて良い気になっている。でも実際は地球資源の4、5倍もの資源があることにしなければ成立しないほどの紙幣を流通させて帳尻が全く合わない状態を見ないことにして涼しい顔をしているのだから良い気なものだ。
人間は基本的に地球の資源を取り出して生活している。
魚を捕まえて食べる、魚を捕まえて売る、魚を加工して白身魚フライにして売る、人を呼んでオシャレな内装で豪華なお皿に白身魚のフライを乗せて売る、魚を釣るための道具を作って売る、海から離れたところでも魚を運んで売る、魚を運ぶ車を作って売る、魚を運ぶ車の燃料を売る、魚や加工品が売れるために広告を作って、広告という技を売る、魚の養殖を合理的に進めるためのコンピュータ・システムを売る、そのコンピュータを悪意あるシステム・クラッカーから守るためのウイルス対策ソフトを作って売る、ウイルス対策ソフトを作って儲けたお金で魚を買う。
魚という資源を考えただけでも直接的、間接的に実に様々な資源を必要としている。(ウイルス対策ソフトが資源かって? コンピュータにオペレーティング・システムがなければ、ただのアルミニウムやガラスやプラスチックの造形物だ。そこにオペレーティング・システムや各種ソフト・ウエアという付加価値が付くから売れるのであるが、これも資源があるからこそだ。)
私たちは資源を使わずには生きていけない。無駄な使い方や自分の利益だけを追求して必要以上に使うことは戒めたいものだ。
続く
落差について想う。落差は経済を動かしている大きな原動力だ。例えば水力発電で考えるなら、右図よりも左図の方がより発電力があるだろう。
例えばイモリを知っているかな? 川の流れの淀んでいるような所にいるお腹の赤い両生類であるところのイモリだが、実はヨーロッパやアメリカに輸出されている。日本ではその辺にいる、(イモリには失礼だが)誰も見向きもしない存在だけど、外国に持っていくとお腹の赤い珍しい両生類だとしてペットとして飼う人がいる。もしかしたら1匹5千円とか1万円とかで流通しているのかもしれない。
日本でタダだったものが、外国では1万円。
もし、日本で1万円するものを外国で欲しい人が1万円だったら買うとしたら、儲けはなく、逆に生きたまま輸送するコストの方が高くついて赤字になる。
タダが1万円になるという格差があるからこそ成り立つ商売だ。
あるいはコーヒー豆だってそうだ。私が買うランクでは200グラム750円前後だけど、200グラムの豆を作るために、森林を焼き払って焼畑農法によって、殆どタダみたいな料金でコーヒー栽培を担う人がおり、食物連鎖を分断してしまったために害虫が爆発的に増えて、それを殺すために農薬Aを使い、その影響でまた食物連鎖が狂ってまた違う種類の害虫がわいて、それを駆除する為に農薬Bを使う。そのうちに土地が痩せて害虫がわいて、ついには農地を放棄して次の森林を焼く。それだけ多くの人を泣かせ、森林を失い、人体に有害な農薬をまき散らし、ついには人も動植物も生存できない砂漠を増やす。そういった代償が200グラム750円というのは有り得ない。
落差があるからこそ成り立つ商売だ。
先日、15年くらい前から使っていた我が家の電子レンジが壊れたので、買いに行ったら1台8500円だった。安くて助かる半面、こんな値段で売って儲けがあるのだろうか?と不思議に思えて逆に罪悪感を感じた。きっと中国で原材料を掘り出したり、組み立て工場の生産ラインに並んで黙々と作業している人々に激務を強いて見合わない激安の賃金で働かせているからに違いない。
落差があるからこそ成り立つ商売だ。
中国では最初は外国の資本で働いた低賃金労働層が次第に資金を貯めて中産階級から上流階級になる。そうしたら自分の会社を持って手付かずの中国の田舎に安い労働力を求める。その中から中流階級、上流階級が生まれ、さらに手付かずの農村に向かう。中国全土が中流化したら次はベトナム。もしかしたら次はアフリカ。
落差があるからこそ成り立つ商売だ。
もし全世界が中流階級以上になったとしたら、上載の図で言えば右図になるはずだ。落差なきところは薄利多売となり、値引き競争となり、赤字でも売り続けて世界中の政府も会社も工場も自治体も村落も家族も個人も借金まみれになって破綻するだろう。(と言うかその前に地球環境がダメになって人が住めなくなるが…。)
私たち人類は正しいですか? 地球上の生命を健全に保てますか?
他の動植物から見たら人類は協定破りのならず者ではないだろうか?
私たち人類の生きる方向性なり、動機付けなり、根本思想は間違っていると結論する過激な提案が、実は正しく評価されるべき提案かも知れない。
(続く)
グローバル社会は世界レベルの弱肉強食状態なので、生き残るには日本の競争力を上げなければいけない、などと言われる。
確かに強い競争力の製品やサービスを持っておれば、それを外国に売って外貨を得て自国はお金持ちになる。逆に何もせず外国から買ってばかりいると円がどんどん外国へ持っていかれて国自体が貧乏になり、次の製品を作り上げる力もなくなってしまうだろう。
でも、根源的な問題として問いたい。
競争に参加しないといけないのか?
もしかしたら、そう競わなくてもかまわないことにまで誘われて参加させられているのかもしれない。
単純な話、ギャンブルならお金を賭ける人が多ければ多いほど勝者の配当金は高くなる。
参加するつもりがない人もうまいこと言ってその気にさせて、はい、あなたも一口どうぞ。
勘違いしてはいけない。例えば全員で持ち寄ったお金が全てで100万円だとしよう。
勝った人が100万円を得るかもしれないが、100万円が勝手に200万円に増えたりしない。
お金を巻き上げられた方は辛い生活を強いられる。
でも、勝った方も常に勝負で身も心も疲弊しているかもしれない。
先日のエッセイで、私たちの地球の様子をアクアリウムに見立てたらどうだろうという提案をした。その視点から見るならば、地球上の全ての人が競争すれば、地球の環境は確実に人が住めないレベルに破壊されるだろう。
誰かが勝った時には、誰もがいない、勝者のいない競争。
そこまでして得たいモノは何だろう?
何が欲しい?
(続く)
モアイの石像で有名なチリ領イースター島は、かつて豊かな森林があったそうだ。しかしモアイを作るために必要な樹木を乱伐した。肥えた土が海に流され農地が減少し、鳥類も食べてしまい絶滅し、そこへ人口爆発。人々は島から逃げ出そうとしてもカヌーを作るための木もなく、最後は殺しあって人肉を食べたそうな。
遠い過去の記録だろうか。
common sense コモン・センスは日本語で常識と訳されるが、私が以前に読んだ本には以下のようなことが書いてあった。
コモンとは、共有地という意味があるが、元は羊やヤギを飼う牧場地の囲いを意味した。その囲いの広さには何頭のヤギを飼うかが決められていたが、とある人が生産性を上げようと倍の頭数のヤギを放した。ヤギは牧草を食いつくし、その牧場は成り行かなくなった。コモン・センスとはコモンをうまく成り立たせる意識のことであって、日本語の常識よりもむしろ真理に近い、と。
今の私たち地球人の生活をアクアリウムの水槽に見立てたら、何が見える?
光合成をする植物をどんどん伐採して二酸化炭素をバリバリ放出し、ろ過フィルターの能力を遥に越えた廃棄物を垂れ流し、食べ物を栽培しているがその場で食べず、どこか他の場所に無駄に運んで食べ、道具を作って使う知性があるみたいだが、武器(威力があるものはアクアリウム自体を何回でも軽く吹き飛ばす威力があるらしい)みたいなのを作って殺し合っている。
コモン・センスなき生活。そして、私たちは地球から逃げ出すカヌーだってないのだから。
(続く)
昨年、イギリスのストーンヘンジを訪れた。うまく表現できないのだけど、心の底から揺さぶられるような感動があった。そして自分の生き方をあるいは人類の生き方を見直すぐらいのインパクトがあるのだろうと感じた。
これは過去から未来への贈り物だ。
ストーンヘンジに関しては未解明の謎が多い。そもそも何のためだったのか?という第一義的な動機も定かでない。およそ紀元前3000年から紀元前1500年にかけて建設、利用されてきたようなのだけど、その時代は文字がないので記録がない。簡単に前3000~1500って思ってしまうけど、1500年間にもわたって成されてきたものだ。
例えば具体的にイメージするために今を基準に考えてみよう。西暦2012年の今から1500年を遡れば西暦512年ということは、日本では古墳時代後期、未だ飛鳥時代も始まっていない時期から現在までかけて造られた。人間は文字の記録があっても読むのが面倒臭くて読まず、原初の理由を知らないことが多いのに、文字がない時代ならもっと情報の継承が難しく、そもそもの理由が分からなくなっている可能性が高いはず。
ストーンヘンジは何のため?が分からないのは、今に生きる私たちだけではなく、当時の人たちの多くも分からずに造っていたのかも。
「お~い、次郎平やい、ストーンヘンジば続き造るっぺ」
「なんじゃあ、寛左衛門、手伝えっぺ言うなば手伝うっちゃ、ストーンヘンジば何がためばい?」
「何がためっちゃ言われても、おら、爺さんの爺さんのそのまた爺さんの言い伝へば…」
「そがな言い伝えば何遍も聞いたっちゃ。寛左衛門よ、おら知りたいことば、何がたべばいっちゃ理由がな」
「おらそげな難しかこつ聞かれても…、ただおらら一族、造るが使命ば言い聞かされてきたとも、古の言い伝えば守らんかっちゃ。」
もしかしたら人類は一番大切な基本原理をうっかり忘れやすい生き物かも知れない。
(続く)
これは過去から未来への贈り物だ。
ストーンヘンジに関しては未解明の謎が多い。そもそも何のためだったのか?という第一義的な動機も定かでない。およそ紀元前3000年から紀元前1500年にかけて建設、利用されてきたようなのだけど、その時代は文字がないので記録がない。簡単に前3000~1500って思ってしまうけど、1500年間にもわたって成されてきたものだ。
例えば具体的にイメージするために今を基準に考えてみよう。西暦2012年の今から1500年を遡れば西暦512年ということは、日本では古墳時代後期、未だ飛鳥時代も始まっていない時期から現在までかけて造られた。人間は文字の記録があっても読むのが面倒臭くて読まず、原初の理由を知らないことが多いのに、文字がない時代ならもっと情報の継承が難しく、そもそもの理由が分からなくなっている可能性が高いはず。
ストーンヘンジは何のため?が分からないのは、今に生きる私たちだけではなく、当時の人たちの多くも分からずに造っていたのかも。
「お~い、次郎平やい、ストーンヘンジば続き造るっぺ」
「なんじゃあ、寛左衛門、手伝えっぺ言うなば手伝うっちゃ、ストーンヘンジば何がためばい?」
「何がためっちゃ言われても、おら、爺さんの爺さんのそのまた爺さんの言い伝へば…」
「そがな言い伝えば何遍も聞いたっちゃ。寛左衛門よ、おら知りたいことば、何がたべばいっちゃ理由がな」
「おらそげな難しかこつ聞かれても…、ただおらら一族、造るが使命ば言い聞かされてきたとも、古の言い伝えば守らんかっちゃ。」
もしかしたら人類は一番大切な基本原理をうっかり忘れやすい生き物かも知れない。
(続く)
今年は日本にも世界にも大変な一年でした。
今年の自分を振り返ってみたら、華やかさはなかったかもしれないけれど、結構色んな活動ができたと感じる。
また今年の自分はアナログ・レコードや真空管アンプに興味を持ち、さらには抹茶と、アナログ路線に大きく舵を切った年でもある。価値観が変化してきている。今はパラダイム・シフトの只中にいるような気がする。
例年どおり今年の自分を100点満点で何点かという採点をするのだが、今年は世界情勢もあるし、自分も変化の中にいる雰囲気なので、何を基準にすればいいのかよく分からない。
ただ、自分の活動だけにフォーカスするならば、85点かな。
今年も果敢にチャレンジできたことを評価したい。失敗もたくさんした。成功も少しはある。失敗できるというのはチャレンジしている証拠なので。
みなさんにとって2011年はどんな年でしたか?
抹茶を毎日点てていただくようになって、自分の価値観が変化してきたと感じる。
何よりも自然を観て美しい、季節を感じて素晴らしいと感動することが増えた。
そしてまた毎日同じようにお茶を点てても、茶碗の違いや微妙な湯の温度差、気温や湿度、その時の気分など、一度として同じお茶はないのだとしみじみ感じる。
その時その時の一服を大切にしないといけないといけないし、また、自分自身の生活についても同じことが言える気がする。
デジタルだと、とあるファイルを開けば昨日も今日も明日も同じものが出てくるし、マニュアル通りに操作すれば毎回同じ結果になる。「昨日と気温が違うのでファイルが同じように表示されない」などというパソコンは使い物にならないだろう。
そういうパソコンにない無常観がお茶にあるし、茶碗にだってある。
上の写真は私が気に入って使っている萩焼だが、だんだんと貫入(ヒビ)から赤褐色が浮き出て、色が全体的に深くなってきているようだ。
そして次の写真は、母用に使っている萩焼。2ヶ月前まではもっと薄い色合いだったように思うのだけど、これも色が濃くなってきて、ピンクの斑点が目立つようになった。
これがいわゆる萩の七化けという現象だけど、茶碗だって使えば使うほど前の茶碗ではなくっているということだ。
デジタルの世界ではあり得ない、あるいはあったとしても劣化や破損と呼ばれる変化だから、つくづく楽しくて仕方がない。
練習用の安いものだけど、こういう変化を感じていると、自分にとって価値が出てくる。目利きの方が見ると鼻で笑うような茶碗だろうけど、全く構わない。別に高価な茶碗を使って自慢したいとも思わないし、株みたいに投資の対象だとも思わない。ただ、自分が気持ちよく居れたら、たったそれだけで尊い、金銭化とは全く違う値打ちがある。
さて、来年の私は何度か陶芸することになるだろう。茶碗を買おうと思って店を何度か拝見したが、どうせなら作ってしまえという気分がどんどん大きくなってきた。
自分で作陶した茶碗なら、少々不格好なものでも上述の茶碗以上に愛着がわくと思う。しかも陶芸こそ一期一会の世界なんだろうと想像する。
とっても楽しみ。